昭和 終戦と高度成長まで (らいおん食堂創業までの前史)
祖父の誕生〜終戦まで
大正15年、祖父・嶋田 隆雄(たかお)(昭和元年9月)熊本県下益城郡城南町に、曾祖父・嶋田 義太郎(城南町・町会議員)、曾祖母・嶋田 みと の次男として誕生。
終戦〜折尾時代
昭和22年、隆雄、祖母・都と結婚。熊本城南町の本家新居にて生活を始めるが、終戦とともに戦争から帰国した兄が家を継いだため、都の実家・北九州市に居を移す。
隆雄は遠賀郡芦屋米軍駐屯地にて技術者(整備工)として働くかたわら、祖母、都は自宅で芦屋基地米兵の洗濯物を洗う個人商店を開く。昭和27年には本格的に衣料商を始め、翌28年、八幡市折尾町に移り住んで衣料店舗開店。この年、父・秀範が誕生。
祖父・隆雄の若かりし頃。
高度経済成長期から平成へ(らいおん食堂の歩み)
らいおん食堂を創業 /昭和30年(1955年)
大正15年、祖父・嶋田 隆雄(たかお)(昭和元年9月)熊本県下益城郡城南町に、曾祖父・嶋田 義太郎(城南町・町会議員)、曾祖母・嶋田 みと の次男として誕生。
終戦〜折尾時代
戦死したと思われていた兄が満州から復員したことにより、農家を後継できなくなった祖父は、戦時中皿倉砲台から眺めた製鉄所と八幡の町の戦後の発展を確信し、福岡県八幡市(現:北九州市八幡西区)紅梅町に移り住み、「らいおん食堂」の原型を築く。
当時の季節は夏、夫婦二人で考えた末に簡単にできる商いとして氷屋を始める。この頃、祖父母は裸足で店の営業をしていたという。
朝鮮戦争特需に湧く工業地帯の夏場の工場町には客があふれ、大変に繁盛した。冬になりうどんを提供することにし、食堂としての体裁が整う。当時福岡を拠点に圧倒的な強さを誇った西鉄ライオンズにあやかり、屋号を「らいおん食堂」とする。
洋平の父・秀範、らいおん食堂前にて。当時はカタカナで「ライオン」と表記。
店舗を拡大する /昭和43年(1963年)
新日本製鉄八幡製鉄所にほど近く、数多くの鉄工所が立ち並ぶ工場町である紅梅町もますます活気を増していく。
増え続ける出前先や来店するお客様に応えるために店舗の拡大を決意した祖父は、隣地を買い足し新しい店を建設する。昭和40年代初頭、八幡の町の、いや我が国のすべての商売が上手くいっていた頃であろう。まさに高度経済成長の絶頂期である。
両親の結婚。父、食堂で働く /昭和50年(1975年)
この年、両親が結婚し、二人でらいおん食堂で働き始める。母の実家は小倉魚町近くの三萩野のラーメン店「光来軒」。
母方の祖父母も戦後大分県の日田から当時活況を呈した小倉に移住した人々であった。戦後、九州中から商売を志して若い人たちが北九州を目指したことがよくわかる。
業態の転換を図る /昭和53年(1978年)
高度経済成長が終わり、紅梅町の活況にもすこしブレーキがかかりつつあるこの時代、祖父は、店の二階を改築し、新たな業態で「高千穂」という宴会場を開業させる。大広間の座敷は夜の宴会客でにぎわった。鉄工所の職工相手に昼食や夕食を供する業態から、企業の宴会といった需要に応える時代に変化してきた証だった。
昭和52年頃の洋平、都(祖母)智恵子(母)と共に。
多店舗経営に乗り出す /昭和58年(1983年)
鉄工所のまち紅梅町界隈から大規模な工場がどんどん郊外に移転し、紅梅町の活況が沈みゆくなか、祖父・隆雄は新たなお客さんを求めて、郊外に新しい店を出店する。本城店の開業は、まさに郊外住宅地の開発の時代と重なっている。
一方、父・秀範は翌59年、らいおん食堂の仕事から離れている。
衰退のはじまり /昭和62年(1987年)
新店を開店するも業績は振るわず、昭和62年には「らいおん食堂」本城店、翌63年には「割烹 高千穂」を相次いで閉店。事業は縮小していった。
店名を変え起死回生を図る /昭和63年(1988年)ごろ
屋号を「和洋食 らいおん」に改める。洋食のメニューを大幅に充実させ、保温容器に入れたスープと茹でた麺を分けてラーメンの出前をする方法を独自に考案するなどして起死回生を図るも、経営は迷走する。
縮退が進む /平成元年(1989年)
やむを得ず本店も事業を縮小し、出前専門店へ。
終焉を迎える /平成2年(1990年)
らいおん食堂、廃業。
祖父・隆雄、35年間にわたる飲食の商いに終止符を打つ。
2001年、かつてのらいおん食堂店舗跡地にて他界。享年77歳。
21世紀のまちで(らいおん建築事務所の歩み)
らいおん建築事務所を創業 /平成20年(2008年)
代表の嶋田 洋平、みかんぐみ在籍中に建築設計の個人事務所を始める。妻に相談したところ、かわいらしいという理由から、かつての屋号である「らいおん」をすすめられ、存命中の祖母の了承を得て事務所名を「らいおん建築事務所」と定める。イラストレーターの加藤朋子さんに事務所のロゴマークを作ってもらう。
雑司が谷に事務所を構える /平成22年5月(2010年)
2009年末より、友人のシェアオフィスのデスクを間借りして事業を開始したが、プロジェクトの増加から手狭になったため、自宅の近くの雑司が谷三丁目七曲がりの路地にある古い木造アパートの4畳半の一室に事務所を構える。風呂なしトイレ共同だったが、事務所としての機能は十分。スタッフと二人、模型製作がやっとできるほどの広さだった。
雑司が谷七曲りの木造アパート安井荘の一室。当時のスタッフの石川。
エアコンのない室内は蒸し風呂のようだった。
事務所を高田一丁目に移転 /平成22年8月(2010年)
4畳半の一室が手狭となり、自宅至近にある10年間空家だったガレージの一角に事務所を移転。スタッフとともに倉庫をリノベーションし、セルフビルドで事務所をつくる。
セルフビルドで事務所をつくる。この2日後に洋平の次女・嶋田 今(いま)が生まれる。
らいおん建築事務所を株式会社に改組 /平成24年4月(2012年)
事業の拡大にともない組織を株式会社に改組。代表取締役に就任する。らいおんフレンズというフレンドシップで仲間を増やしながら建築設計をメインにまちづくりなどの事業を進めている。
2012年5月。雑司が谷の本社にて。スタッフの重矢、らいおんフレンズの小林さんと。
らいおん建築事務所南池袋の新拠点スタート /平成28年2月(2016年)
事業の拡大と、代表の嶋田が率いた別法人である、株式会社リノベリングの急成長に伴い、従業員や外部スタッフの増加のため、新拠点での活動を開始する。雑司が谷事務所から徒歩5分。
オフィスを高田の神田川ベーカリーと同じ場所移転/平成30年12月(2018年)
事業領域と事業規模の見直しを図るためオフィスを縮小。現在の高田の本社オフィスに移転する。
高田オフィスをリノベーション/令和2年7月(2020年)
新型コロナウィルスの感染拡大の時期、業務を完全にリモートワーク化。感染拡大収束後のオフィス環境の向上を視野に入れてリノベーション工事を行う。
高田オフィス2階のミーティングスペース
目白に新しい拠点を開設/令和3年10月(2021年)
本業の加え早稲田・雑司ヶ谷エリアの地域に根ざしたコミュニティづくりを実践するための新拠点を開設。
創造と生産を行うファクトリーとしての機能をもった解放区というコンセプト。